Somewhere in the world 〜不真面目社畜の徒然日記〜

ビジネスと旅行と、時々宗教

ラオス旅行記 ルアンパバーンの托鉢〜他者貢献による高度な再配分システム〜

前の記事にも少し書きましたが、世界遺産の街・ルアンパバーンでは托鉢と呼ばれる仏教の行事が有名です。
 
毎朝お坊さんが列をなして歩き、沿道の人々がご飯をお布施に捧げる。(ルアンパバーンの托鉢が最大規模なだけで、ラオスのどこの街でも実施されている)
お坊さんは腰に壷をぶら下げていて、人々はそこにご飯を入れる。その時、お坊さんよりも低く座ってなければならないし、話しかけちゃいけないどころか目を合わせるのも禁じられている。この国でお坊さんは最もリスペクトされている職業らしい。
 
 
 集まったご飯はお寺に持ち帰られて、お坊さんが食べた後は貧しい家庭に分け与えられるらしい。だから後発開発途上国なのにラオスでは物乞いの人はほとんど見ない。
共産主義を象徴する「鎌と槌」の旗がいたるところで掲げられているのに、貧困救済を担っているのはこの地に何百年と続く仏教というのは興味深い。(もしかしてミャンマーもそうなのかな?)

f:id:takechaso:20160515204002j:plain

 
僕も托鉢に参加してみた。日の出くらいに起きて、街に繰り出した。現地の人々は歩道に絨毯を敷いて正座して座っているけど、観光客向けには小さい椅子が置いてあり、そこに座りながらお布施をすることができる。この椅子も巧妙で、背の高い欧米人が座ってもお坊さんを超えないような丈になっている。
 
托鉢が始まる前には路上にたくさんの売り子が出ていて、お布施を買うことができる。(ただ、宿に張られていた托鉢の注意事項ポスターには、「路上の売り子ではなくローカルマーケットで托鉢のお布施を購入してください」と注意書きがあった)
 
観光客向けの椅子に座り、路上で買ったご飯をお坊さんのもつ壺に入れた。お坊さんが次々に来るので、結構テンパる。
極めて宗教的な行事なのに、多くの観光客がお坊さんの脇で写真を取っているのは何だか違和感を感ぜずにはいられなかった。地元の人々が大事にしている領域に足を踏み入れてしまった気分。僕も気をつけよう。
 
でも托鉢に参加してみて、感じるものはあった。村上春樹もエッセイに書いてたように、大事な何かを思い出させてくれる。
与えることで自分も幸せになれるとか、情けは人のためならずとか、何となくそんな感じ。自分の持てるものを人に与えるとはどういうことかを考えさせられる。僕がお坊さんに捧げたご飯は仏教の信仰にもとづいていないとは言え、お坊さんや、ラオスの貧しい人たちの食事になるのだ。そう考えると、ただ遊びでこの街に来たわけでなく、わずかながらラオスの人々に貢献できた気分になる。
 
そういえば、自己啓発本のベストセラー「夢をかなえるゾウ」にも、成功したいなら「寄付しろ」と書かれていた。
 
ええか?お金いうんはな、人を喜ばせて、幸せにした分だけ貰うもんや。せやからお金持ちに『なる』んは、皆をめっちゃ喜ばせたいて思てるやつやねん。でも、お金持ちに『なりたい』やつは、自分を喜ばせる事ばっかり考えとるやつやろ。最初はそういう、自分を喜ばせる欲をエネルギーにして進んでもええ。けどな、世の中の人を喜ばせたいっちゅう気持ちを素直に大きくしていくことが大事やねん。そやから寄付すんねん。
ここではお金=お米だけれども、与えるとは人を喜ばすこと。
托鉢のお布施はお坊さんへの直接的な貢献になる。
しかも、地元のお寺のお坊さんに捧げた食べ物が地元で再分配され、ラオス全体の豊かさにも寄与している。
托鉢とは、他者への貢献のみならず、それによって自分がこのラオスという国の共同体の一員であることを強烈に意識させるのではないか。
まさに、アドラー心理学の言う他者貢献と共同体感覚の実践である。
参考:
 
しかし、若干観光ビジネス化してしまった托鉢も、観光客がお布施してそれがコミュニティで再配分されてるんだから興味深い。托鉢がかっこだけの儀礼的行為に陥ることなく、観光客のお布施も(信仰心はなくとも)コミュニティの再配分システムにうまく組み込まれている。
 
ルアンパバーンの人々の厚い信仰心と実践と、観光ビジネス感覚が、この街を生き永らえさせている。