Somewhere in the world 〜不真面目社畜の徒然日記〜

ビジネスと旅行と、時々宗教

瀬戸内国際芸術祭2016

瀬戸内海の島々で三年に一回開催される、瀬戸内国際芸術祭の夏期に行ってきた。

setouchi-artfest.jp

 

ベネッセハウスミュージアムで有名になった直島をはじめ、10近い島々に現代アート作品が展示されている。

「今、世界のグローバル化・効率化・均質化の流れの中で、島々の人口は減少し、高齢化が進み、地域の活力の低下によって、島の固有性は失われつつあります。
私たちは、美しい自然と人間が交錯し交響してきた瀬戸内の島々に活力を取り戻し、瀬戸内海が地球上のすべての地域の 『希望の海』 となることを目指し、瀬戸内国際芸術祭を開催します。」というのが、芸術祭のコンセプトらしい。

 

僕は芸術や美術館は好きだけど造詣はないので、作品の細かい解釈は他のサイトや本に譲るとして、ここでは僕の印象に残った作品を紹介したい。

これらは、「見る」よりも「聞く」ことを求める作品だ。

 

一つ目は豊島美術館

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豊島の小高い丘の中腹に立地している。

たまごを薄く広く引き延ばしたようなホールで、天井にはぽっかりと二つの穴が空いている。中はバスケットボールのコート二面を並べたよりも広い。

美術館とい銘打ってあるが絵画などの作品は何も展示されていない。広い床のところどころに水がたまっていて、穴から入る風に従って水玉が流れ出している。

人々はホールの中で歩いたり、寝そべったりしている。

美術館というよりは、不思議な空間。

ここの特徴は、何より音がめちゃくちゃ響く。

誰かがスマホを落とすと、カシャンという音がホール全体に響き渡る。

僕が咳をすると、遠い端まで響いていた。

人々は音を立てないように、不要な声を出さないように気をつけているが、どこかで音が鳴り響いていた。

 

二つ目はささやきの森。

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豊島の唐櫃岡地域の山奥の開けた場所に、数百個の風鈴が地面から伸びる細い棒に取り付けられている。

ひとたびそよ風でも吹くと、風鈴が一斉に響き渡る。

まぁ、夏で山奥だったので蝉の鳴き声の方がうるさかったんだが・・・

 

三つ目は心臓音のアーカイブ

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唐櫃浜の浜辺にある小さな小屋だ。

中は暗室になっていて、世界中の人から集めた心臓の鼓動音が鳴り響く。

鼓動に合わせて朱色の照明が不気味についたり消えたりする。

 

これらの作品から聞こえるのはどれも日常に存在する。

ただし、どれも耳をすませないと意識して「聴けない」ものかもしれない。

そこで芸術作品がある意味でアンプリファイア増幅器)となって、日常を非日常化させ、僕らの耳に、心に意識的に到達する。

 

「日常で聞こえるけど聴いてないものに耳をすませてみては?」という芸術家たちの提言にも思える。

都会から一日かけて小さな離島に来た僕は、なおさらそう思う。

 

 

 

キャリアの偶然と必然

アラサー世代になると、これからのキャリアをどう築いていくかというのは常に頭の片隅にある厄介な問題だろう

僕もキャリアについてあれこれ考えていたら、面白い記事に出会った。

ボストンコンサルティンググループで日本支社の代表を務めていた御立さんが半生を振り返った記事だ。

 

diamond.jp

 

京都大学を卒業して日本航空に入社、ハーバードでMBAを取得してBCGに転職して日本の代表へ、と絵に描いたようなサクセスストーリーを体現された方に見える。

世間一般からすれば「成功者」に分類されるだろう。

しかし、本人は自身のキャリアは偶然だったと語っている。

 

正直苦手なのは、夢や目標に日付を入れ、計画通りに実現しようとする考え方。私には合わない人生観だ。人生には、必然と偶然があり、偶然に見えることに導かれて自分にとっての必然の方に近づいて行く。そうした方が、事前に想像できなかった所にチャンスが広がっていく。こう思うのだ。

(中略)

自分らしく成長していくためには、偶然の囁きに耳を貸さないといけない。同志社に落ちたから京大に入れ、バンド仲間が広がり、CBSソニーの内定を断ったら、日本航空で現場と経営企画の両方を経験できた。これが、経営を学ぼうという気持ちにつながり、コンサルタントになることとなった。こういった流れは、偶然の導きだったとしか思えない。

御立さんのサクセスストーリーは、計画されたものではなく、偶然的な事象の積み重ねと導きだった。

 

もう一つキャリアについて面白かったのが、京都大学教授の河合江理子氏の記事だ。

diamond.jp

 

彼女の経歴はとてつもなくグローバルだ。安倍首相が推進しようとしているバリキャリ女子の体現者ではなかろうか。

「日本の公立高校を卒業すると、単身で渡米して、ハーバード大学に入学。その後、INSEAD(欧州経営大学院)、マッキンゼー、BIS(国際決済銀行)、OECD経済協力開発機構)と渡り歩き、現在、京都大学で日本の未来を支える若者たちにその経験を伝えている。」(記事より)

 

そんな彼女のキャリアも、御立さんと同じように偶然の導きだったという。

しかし、高校3年生の秋、職員室の前に掲示されていた「グルー・バンクロフト基金奨学生試験」の張り紙を偶然見つけたことが、私の人生を変えるきっかけになりました。 

 それだけではありません。その後のキャリアの転換期を考えてみても、予想外の経験や出会いがチャンスとなり、30年近くヨーロッパで働き、投資銀行や国際機関で仕事をすることになりました。

 

 

職員室の前に掲示された張り紙を偶然見たことがきっかけでハーバードに入学された。そこからも偶然の導きで外資系企業や国際機関を渡り歩いてきたという。

 

記事でも紹介されているが、スタンフォード大学のクランボルツ教授が提唱する「計画性偶発的理論」によると、人のキャリアの8割は偶然の出来事に左右されているらしい。

 

allabout.co.jp

クランボルツ教授によると、むしろ変化の激しい時代において、あらかじめキャリアを計画したり、計画したキャリアに固執したりすることは非現実的であり、すべきでない。むしろ、偶然の出来事を意図的・計画的にステップアップの機会に変えていくべきと指摘している。そしてこれを実践するために必要な行動指針として、次の5つを挙げている。

(1)「好奇心」 ―― たえず新しい学習の機会を模索し続けること
(2)「持続性」 ―― 失敗に屈せず、努力し続けること
(3)「楽観性」 ―― 新しい機会は必ず実現する、可能になるとポジティブに考えること
(4)「柔軟性」 ―― こだわりを捨て、信念、概念、態度、行動を変えること
(5)「冒険心」 ―― 結果が不確実でも、リスクを取って行動を起こすこと

 

 

人生は常に計画的に考え、着実に実行することが成功の鍵と思っていた僕にとって、「計画性偶発的理論」はまさにコペルニクス的転回だった。

今までの日本は、キャリアというものはかなり計画的に作りやすいものだった。

いい大学を出ていい会社に入り、仕事を頑張って出世して、役員まで行ければ御の字、課長止まりでも終身雇用だからまぁ安心。定年後は年金をもらって悠々自適に暮らす。

こんな世間一般的なロールモデルが確立していて、キャリアの各段階で与えられた要件をこなしていけば社会からの承認が得られた。

 

しかし、不確実性が高く、変化も激しい現代でこんな生き方がうまくいくとは必ずしも限らなくなった。大企業だって倒産しうるし年金ももらえるか分からない。

何十年先のことを緻密に計画するなんてできない。僕たちが計画した未来が訪れた時、それは想像とは全く異なる世界になっている。

だからこそ、その時々に訪れる偶然に耳を傾けなければならない。

 

御立さんがCBSソニーの内定を断っていたら日本航空に入ることも、BCGに転職することもなかっただろう。

河合さんが職員室前の奨学金の張り紙を見なかったら、ハーバードに行くことも、国際機関のキャリアを積むこともなかっただろう。

そういえばスティーブジョブズが退学後にカリグラフィーの授業を聴講し、マッキントッシュのフォント作りに役に立ったという"Connecting Dots"の話はあまりにも有名だが、これも「計画性偶発的理論」の例だろう。

 

If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts. And since Windows just copied the Mac, it’s likely that no personal computer would have them. If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do. Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backward 10 years later.

たまたま受けたカリグラフィーの授業が、後から振り返ると点と点がつながっていった。

 

大事なのは、偶然に耳を傾け、それらに絶えず意味付けを行い、必然とすることではないか。

日本航空に入ったのはたまたまだった。偶然、職員室の前で張り紙を見た。たまたまカリグラフィーの授業に潜り込んだ。

あの時は偶然だった。でも、今振り返ると、今の自分が自分であるために必然の出来事だった。

いくつもの偶然に導かれ、点と点が結びつきストーリーとなった時に、自分のキャリアができていくのだ。

 

 

 

 

恋愛障害/トイアンナ〜高めよう、自己肯定感〜

男ですがトイアンナのブログは好きでよく読んでいたので、

新著を買ってみた。

 

 

恋愛障害:自己肯定感の低さ

幸せな恋愛ができない、いつも彼氏に傷つけられてしまう、オクテで男性経験がないといった恋愛に対して何かしら問題を抱える症状を恋愛障害と称し、そんな女性への処方箋を記している。基本的に女性視点で書かれているけど、男性にも役に立つ部分はある。それに、世の中こんな女性がいるということを知れるのも有益かもしれない。

 

男女問わず恋愛障害に陥っている人って総じて自己肯定感が低いのが原因だと思う。

自己肯定感の定義は難しいけど、自分をリスペクトできるか、自尊心があるか、といったところでしょう。

自己肯定感が低くなってしまうのは、過去に虐待やいじめを受けたり、DVされたり、ひどい失恋したりと、本人のせいでは無いことの方が多いと思う。

 

振られて傷つくのが怖い

どうせ自分なんてと思って声をかけられない

尽くし続けないと不安になる

 

自分を大事に扱えないから、不健全な形で相手に依存したり、何も行動できない

Bump Of Chickenの「ギルド」という歌に、「愛されたくて吠えて、愛されることに怯えて」ってフレーズがあるけど、まさにこれに当たるんじゃないだろうか。

 

小さな積み重ねが大事

かといって自己肯定感は一朝一夕に身につけるものではない。

小さな経験を積み重ねるしかない。

この本では「パートナーにきちんと『怒る』」みたいな細やかなアドバイスがあるので、まずは実践するのはいかが。

あとは、失恋したとしても「ま、次があるさ」と開き直って気持ち切り替えることでしょうね。

 

スウィートなこともビターなことも全部自分ならではの経験と思えるようになれば、いつの間にか自己肯定感も生まれるんじゃないでしょうか。もはや恋愛に限らずですね。

まずは行動。

 

 

あわせて読みたい

僕もかつては自己肯定感低め系男子だったわけですが、

今ではそれなりに自分を受け入れて自尊心を持てるようになりました。

自己肯定感を高めるのに役立った本を紹介します。

恋愛障害を患っている人は傷つくのが怖かったり、人との接し方に不安があるかと思います。まさにドストライクなタイトルです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何したらいいですか?」と「○○しましょうか?」では天と地ほどの差がある。

社会人になりたての頃、僕は自分から上司に指示をもらいに行っていた。

というのも、僕の世代はいわゆる「ゆとり世代」の先駆けで、

「ゆとりは指示待ちばっかり」とか「ゆとり使えなさすぎワロスwww」とか揶揄されていた。

参考:常に指示待ち、やる気がない、打たれ弱い…ゆとり世代使えなさすぎワロタ

http://www.newsch.info/archives/19194096.html

 

だから僕は、「指示待ち」と言われないように自分から動くことを心がけていた。「何したらいいですか?「次はどうしましょうか?」と、指示が来る前に指示を仰ぎに行っていた。

その結果、上司から指示待ちと言われることは無かった。でも代わりに、「お前は自分のアタマで考えろ!」とよく叱られた。こちらとしては、自分から考えて主体的に動いているつもりなのに、自分のアタマで考えろってどうしろっつうねんと突っ込んでいた。

そんな悶々が続いていたが、ある日先輩からこんな助言をされた。

「良い質問っていうのは、仮説+クローズドクエスチョンだよ」

 思わず膝を打った。僕が自分のアタマで考えれていなかったのはこれだった。

すなわち、オープンクエスチョンとクローズドクエスチョンの違いである。

オープンクエスチョンは相手に制約をもうけずに自由に答えてもらう質問で、

一方クローズドクエスチョンは「はい/いいえ」や「A/B」みたいな二択で答える質問だ。

 

分かりやすく、鍋パーティで例える。

友人A宅に、僕と友人B、友人Cで鍋をすることになった。

一通り買い出しを終えて友人A宅に着く。

僕がトイレをお借りしている間に、友人Bは豚肉を切っていて、

家主の友人Aと友人Cは居間で談笑している。

さて、ここでどうするか?

「何したらいい?」と聞くのは、オープンクエスチョン。

「野菜でも洗おうか?」は、クローズドクエスチョン。

前者は主体的に見えて実は何も考えていない。

しかし後者は違う。

「野菜でも洗おうか?」と聞く前に、

①目的認識

腹減ったし早く効率的に鍋を作りたい。(そしてこれは四人の共通認識である)

②状況認識

友人Bが豚肉を切っているが、見たところまな板と包丁は彼が使っている1セットしかなく、同時並行で切ることはできない。

③役割認識

鍋やガスコンロをセットすることもできるが、それは家主の友人Aが勝手を知ってるし、ここは任せた方が良さそう。この状況下で同時にできるのは野菜洗いだから、まず僕はそれをやろうか

・・・・で、

「野菜でも洗おうか?」

となる。

オープンクエスチョンの「何したらいい?」と比べて、「野菜でも洗おうか?」のクローズドクエスチョンには、上記の三つの自分のアタマで考える段階が介在する。

 

そして、「野菜洗いがこの状況下で鍋作りプロジェクトに自分が最も貢献できるのでは?」という「〜では?」の部分が、まさにビジネスパーソン必須のスキルと言われて久しい仮説思考だ。

 

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法

 

 

仮説は当然自分のアタマで考えないと出てこない。仮説をぶつけるのは必然的にクローズドクエスチョンになる。

新入社員の時に犬のように「何したらいいですか?」と聞き回っていた僕は、自分のアタマで考えていなかったのだ。

 

「何したらいいですか?」と「○○しましょうか?」

オープンクエスチョンとクローズドクエスチョン

ほんのわずかな差に見えて、心がけるだけで自分のアタマで考えるスキルにめちゃくちゃ差がつく。

老婆心ながらだけど、新入社員やこれから社会人になる学生さんは、僕の二の舞にならないためにも仮説+クローズドクエスチョンを心がけてほしい。

 

(もちろん、いきなりよく分からん部署に配属され、誰からも相手にされないような場合は、「ええと、まず何したらいいでしょうか」とオープンで聞かざるを得ない。

クローズドで聞けるのは、ある程度状況認識が可能な段階という条件はつく。)

 

 

 

「アルケミスト―夢を旅した少年」/パウロ・コエーリョ 

上京についてたらたら書いた時にもご紹介しましたが、あらためて書評を書きたい。 

パウロ・コエーリョというブラジル人作家のベストセラー小説です。

 

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

 

以下、Amazonの「内容」からの引用↓

羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出た。そこに、彼を待つ宝物が隠されているという夢を信じて。長い時間を共に過ごした羊たちを売り、アフリカの砂漠を越えて少年はピラミッドを目指す。「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」「前兆に従うこと」少年は、錬金術師の導きと旅のさまざまな出会いと別れのなかで、人生の知恵を学んで行く。欧米をはじめ世界中でベストセラーとなった夢と勇気の物語。

 

正直、ここ数年間読んだ本でダントツで良かった。間違いなく、これからの僕の人生の指針となってくれる本です。

 

心の声を聞け

この本の教訓は、己の心の声を素直に聞き、夢を追い続けよということです。

少年サンチャゴは道中で何度もアンダルシアの平原に引き返そうとする。

羊飼いの仕事はもう慣れているし、旅で辛い思いをする必要も無い。

そこで彼の前に現れる王様や錬金術師が彼に諭します。「自分の心に従いなさい」と。

多くの苦難を乗り越えながらも、サンチャゴはエジプトへ向かう。

一方、夢を追いきれなかったメタファーとして、おじさんたちが出てくる。

小さい頃から旅に出ることを夢見続けているパン屋のおじさん、いつかメッカに巡礼したいと思いながら巡礼者を見送るだけのクリスタル屋のおじさん。

彼らは、「本気だせば夢がかなうかもしれない」という可能性に生きている。そしていつか気づいてしまう。「一歩でも踏み出せば、その夢は叶うはずだった」ということに。

 

マクトゥーブ:それは書かれている 

少年サンチャゴは、錬金術師やオアシスの少女など、何度も偶然の導きに出会う。

それは作中で「マクトゥーブ(アラビア語で、「それは書かれている」の意)」と言われる。偶然のようで、実は必然だったということだ。

少年に、「夢を追うものには、全宇宙が協力してくれる」と誰かがアドバイスをする。

夢を手に入れるは、夢を追い続け、偶然に導かれながれもそれを必然と意味付けできる者だということだ。

 

ジョブズも言ってた

「己の心に従う」というのは、スティーブ・ジョブズがかの有名なスタンフォード大でのスピーチでも言ってました。

And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

「マクトゥーブ」-偶然だけど必然というのは、彼のConnecting dotsの話とも似てますね。

Again, you can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something ― your gut, destiny, life, karma, whatever.

偶然の出来事に思えても、絶えず意味付けを行えば、それは夢を追うための必然になる、てことかもしれません。少年サンチャゴも、今までの旅路での出来事が、点と点のようだったのがすべてつながっていく。それはマクトゥーブだから。

 

www.youtube.com

 

アルケミスト」は自分が自分を忘れそうになった時に、自分の夢から引き返そうとした時に何度でも読み返したい本です。

 

 

 

「勝ち続ける意思力」/梅原大吾〜バランスよく変化し続ける〜

前回ちきりんさんと梅原氏の対談本をご紹介したけど、今度は梅原氏の「勝ち続ける意思力」を読んでみた。

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

 

 「勝つこと」ではなく、「勝ち続けること」を説明した本。

両者は似ているようで、果てしないほどの差がある。

(このブログも、ぽんっとアクセス数が伸びたかと思いきや、閑古鳥が鳴く日もある。アクセス数を伸ばし続けるのはとかく難しい・・・)

格闘ゲームで世界トップに君臨し続ける梅原氏の勝ち続ける極意とは何か?

それは、バランスよく変化し続けること。

本書でたびたび言及されているのが、日々の変化を大事にするということだ。昨日の自分よりも少しでも成長できたか?変化できたか?と梅原氏は自分に問うという。

それは、昨日出せなかった技が出せるようになったとか、近くにいつも行くスーパーより2円安い店を見つけたとか、ほんの些細なことでも構わない。

すなわち、小さな成功体験を積み重ねることだ。昨日の自分よりもほんの少しでも成長したことに喜びを感じる。小さな成功体験でも、塵も積もれば山となるごとく、自分にとって大きな自信になる。

 

一方で、梅原氏は過去のスタイルにとらわれてはいけないとも言う。格闘ゲーム業界の競争も激しく、強いと思われる勝ちパターンを確立してもすぐに研究され、敗れ去ってしまう。昨日出せたあの技を使えば今日は勝てるかもしれないが、明後日は、来週以降は勝てるか分からない。自分が積み重ねた勝ちパターン、すなわち成功体験を捨て去る勇気が必要なのだ。

 

勝ち続けるためには、勝って天狗にならず、負けてなお卑屈にならないという絶妙な精神状態を保つことで、バランスを崩さず真摯にゲームと向き合い続ける必要がある。

 

僕にとっての正しい努力。それはズバリ、変化することだ。昨日と同じ自分でいないー。そんな意識が自分を成長させてくれる。

自分の成長に喜びを感じながらも、それに溺れることなく、昨日の自分よりも変化しつづける。この絶妙なバランスの変化こそ、彼が世界で「勝ち続けている」所以なのだろう。

 

「悩みどころと逃げどころ」/ちきりん・梅原大吾〜人生に行き詰まっている人が救われるために〜

ちきりんさんの新作が出たということで早速読んでみた。

今度は世界最強のプロゲーマー梅原大吾との対談本だ。

 

教育、人生、仕事、幸せといったテーマについてバックグランドが対極の二人が議論を重ねている。

ちきりんさんは典型的な学歴エリートかつキャリアウーマン。一方で梅原氏は早々に学歴レースから離脱、悩みもがき苦しみながらゲームの世界で勝ち続けている。

ちきりんさんの本は一通り読んでいるので、彼女が表に出している価値観はだいたい知っていたつもり。でも梅原氏は真逆の視点を提供していたのが僕には新鮮だった。

 

本書のメッセージ:学校的価値観からの脱却と人生への納得感 

そんな二人の共通点は、ジブンの頭で考え、ジブンの人生に「納得」しているところ。

そしてこれこそが、対極な立場にいる二人から読者へのメッセージだと思う。

他者からの目を気にすることなく、ジブンの好きなことをして、ああ良かったと言えれば良い人生じゃないの?

 この本の帯に「人生に正解なんて、ない!」とあるけど、正解が無いからこそ、ジブンの人生を生きろと訴えかけている。

 

二人がジブンの人生に納得できているのは、時期の違いこそあれ「学校的価値観」からの脱却に成功しているからだ。

この「学校的価値観」という言葉が本書ではたびたび登場する。

明確な定義はなされていないが、文脈にそって考えると、「公教育の中で、先生の言う通りに行動し、皆と調和を合わせ、勉強を頑張っていい大学に入り、いい会社に入るべきであるという規範」とでも言おうか。

梅原氏は早々に学校的価値観から逸脱している。小学校の時になぜ勉強しなければならないのか?と先生に聞いて、よくしかられたという。「あれしろこれしろ」と命令するばかりで、理由を教えない大人に嫌気がさした。そしてゲームセンターに入り浸り、こちらの道で成功する。(その間、麻雀だったり介護だったり紆余曲折を経ているが)

対してちきりんさんは途中まで学校的価値観の体現者だった。地元の進学校から東京の一流大学に入り、大企業に入社した。その後いろいろあり、匿名ブロガーという学校的価値観から遠く離れた職業?に就いていらっしゃる。彼女自身、学校的価値観からの脱却に多大な時間を要したと話している。

二人がジブンの人生に納得できたきっかけが、この学校的価値観からの脱却のように思える。

なぜ学校的価値観に従ってはダメなのか 

ではなぜ学校的価値観はダメなのか?もしくは、学校で教えられていることを忠実に守っても、人生への納得感が得られないのはなぜか?

それは、時代錯誤の一元的価値観を子どもに押し付け、自分で自分の幸せを考えなくするからだ。

 

時代遅れのロールモデル

まず、学校的価値観の「いい大学に入っていい会社に入る」というロールモデルがもはや時代遅れだ。

高度経済成長期ならロールモデル通りだった。いい大学にさえ入ればいい会社への就職が約束され、いい会社に入りさえすれば年功序列的に毎年給料が上がり、定年後は悠々自適な老後が待っていた。

でも、僕があらためて書くでもなくいろんなところで言われているが、もはや右肩上がりの時代は終わった。大企業だってリストラされる。10年前に、シャープが台湾企業に救済されるなんて誰が想像できただろうか?

僕が就活していた3年前は商社が資源でバンバン最高益をたたき出していた。友達と「商社入ったら10年は絶対安泰だよな〜」なんて真面目に話していたら、たった3年後に大赤字をこいた。

もはや学校的価値観のロールモデルが通用しなくなった。先生の言う通りに勉強がんばって、いい大学入っていい会社に入ることが人生の成功を保証しない。

 

他者との比較による幸せ

そして、学校的価値観への従属は他者からの承認欲求を生み、他者との比較でしか幸せを感じれなくなる。

学校では先生の教えを守り、みんなと同じように行動することを要求される。

「みんな同じ」という強烈な平等感を植え付けられる。

しかし、平等にもかかわらず必然的に差は生まれる。

最初はみんな同じなのに、勉強が得意な子もいれば、そうでない子もいる。いい会社に入れる人もいれば、世間的に評価されない会社に入社を余儀なくされる人もいる。

学校では「偏差値」、会社に入ってからは「年収」でその差が測られる。

この二つの指標が高いことが、学校的価値観で唯一良い人生とされる。

良い人生が定量的に示されるのだから、他者との比較を生み、嫉妬や蔑みに変わる。

「なんであいつの方が良い大学に?」「なんであいつの方がいい年収もらってんの?」

またその逆も然りである。

最初はみんなヨーイドンで一斉にスタートして、同じように走ってきたのに、いつの間にか差が生まれ、それが数値で可視化される。

本当はジブンは何をしたいのか?ではなく、他者よりもより高い指標をたたき出すことが人生の目的となってしまう。ジブンの人生とは何か、ジブンの頭で考えなくなってしまうのだ。

最初から「みんな違ってみんないい」、幸せの指標は一つじゃないと思えれば、気が楽になるはずなのに、である。

 

ちきりんさんと梅原氏は、対極な人生を歩みつつも、学校的価値観から脱却することで、ジブンの人生をジブンで考え、納得している。

「ジブンの人生なのだから、普遍的な正解など無いのだから、ジブンが納得できる人生を生きようよ。」

そんなシンプルなメッセージを投げかけてくれる。

学校的価値観に従って生きてきたのに、人生行き詰まっている人は是非手に取ってほしい。